アクロスザヘイブンお試し版


 いつもは胸焼けするくらい甘い声が、めずらしく真剣な声で叫ぶ。

「───逃げろ!」

 誰から。
 何から。

「……お前に恨みはないんだが、」

 黒髪黒眼。
 鍛えられた巨躯に相応しい武器を構え、緊迫した雰囲気にそぐわない穏やかな声が、告げる。

「これも《契約》だ」

 同時に火を吹く銃口。
 まるで他人事のように、死を思う間もなく───。
 
「甲太郎っ!」

 腕を掴まれ背中に庇われる。
 衝撃も痛みもない。
 まるで何事もなかったかのような静寂に浮かぶ、奇妙な。

「……なるほど《葛葉》か」
 
 紅蓮を纏う獣と黒猫を足元に、静かに前に出た律に先ほどから浮遊している、子供のラクガキのような小さな異形がふわふわと近づいてくる。
 まるい顔にぽっかりとあいた空洞のような目と口。

「……甲ちゃん、」

 大丈夫?とこちらを覗き込む顔が声が辛うじて、これが《夢》ではないことを自覚させて。

「なんだ」
「ごめんちょっとお願いがあるんだけど」
「ケルベロス」

 困ったような声と凛とした声が重なり、現れた銀色の獣に視界を覆われる。

「───逃げて」
「頼む」

 とん。と胸を押され、律の言葉に頷いた獣に襟を引っ張られ、

「九龍っ!」
「また後でね!」

 引き摺られるように走り出したその後ろで派手な炎が上がる。
 けれどそれに足を止めることも振り返ることも出来なかった。

 今自分が出来ること。

(逃げろって何処にだよっ)



2006.05.29
女王様が出て来れなかった_| ̄|○

【clap】

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